俄雨

〜ヴィクトールの休日〜

ヴィクトール様・・

雨を見ると思い出しますか?
失った大切な人たちのことを。
今でも幸せであることを迷ったりしますか?
時々聞いてみたくなるんです――


ヴィクトールとアンジェリークは、束の間の梅雨の晴れ間に、近くの小さな公園へ散歩に出かけた。
薄汚れたベンチに腰を下ろして、何をするという訳でもないが、他愛もない話をしては、青々と茂る新緑を眺める。
さわさわと風にゆれる木々の葉。漏れる木漏れ日は眩しく二人の瞼に集う。鳥のさえずりは楽しげで、午前中の重苦しかった空気さえ嘘のように感じた。
こんな風にゆったりと過ごせる休日は二人にとって貴重なものだった。
アンジェリークが自分を見て微笑む。それが、ヴィクトールにとって唯一の安らぎ。
もっと側でその安らぎを感じていたい・・
ヴィクトールは立ち上がり手を差し伸べた。
「少し遠回りして帰るか?」
「はい・・・」
向けられる笑顔に、アンジェリークは遠慮がちにヴィクトールの腕に絡みつく。彼の細まる琥珀色は、相変わらず照れ屋で優しい。
初夏の少し強い日差しが路地に短い大小の影を作る。けれど、その仲睦まじげな影はいつしか消えていた。


あの時、遠回りなどせずに帰ったほうが良かった。それならば彼女に辛い思いをさせずに済んだのに・・
けれど、後悔したところで何も変わらない。自分には変えられなかった。


さっきまでとは違う風向きが木々の葉をざわめかせ、鳥たちの歌も止んだ。ヴィクトールは空を見上げアンジェリークに視線を落とした。
「雲行きが怪しいな。急ぐぞ」
彼はアンジェリークの腕を強く引く。そして、緩めた歩幅を自分のペースに戻した。
「きゃ?!ヴィクトール様。まだ晴れてるし、急がなくても大丈夫ですよ」
「いいから、早くしろ」
雲の合間から幾筋もの光がのぞく。確かに雨が降り出しそうな雰囲気だが、今すぐという感じではない。けれど、見上げたヴィクトールの顔は険しかった。
こんな顔を見るのは、もう忘れてしまうほど前のことだった気がする。アンジェリークの胸に小さな不安がよぎった。


急ぎ足のヴィクトールに付いて行くには、小走りでないと追いつけない。アンジェークは息を切らして彼の背中を追いかけた。
二人の住む屋敷までは、ここから徒歩で5分と少し。それほど遠い距離ではない。上手くいけば雨に遭わずに家に着くことが出来るかもしれない。
しかし、ぽつぽつと降り出したにわか雨は、やがて大粒の滴となって容赦なく二人の体を濡らして行った。
麻のジャケットをヴィクトールはアンジェリークの頭の上から掛ける。
このまま家まで走ったら、上着にも雨が染み込み、確実に彼女の髪が濡れて、風邪を引かせてしまうだろう。
この辺りに電話ボックスがあったはず。ヴィクトールはアンジェリークを腕の中に抱くようにして、近くの電話ボックスへと駆け込んだ。


息を上がらせたアンジェリークをヴィクトールは心配気に見つめる。滴の垂れた髪の先端に触れ、肩にそっと手を置いた。
「随分と濡れてしまったな・・・」
買ったばかりのワンピース。それが、無残に濡れそぼり、細い体のラインとなだらかな曲線を浮かび上がらせている。
ヴィクトールは慌てて視線を外へと向けた。
車の通りは少ないとはいえ、こんな姿を誰の目にも触れさせたくはない。彼は、道路側に背中を向け、ジャケットをもう一度アンジェリークの頭の上から被せた。
ふわりと乗った上着越しにアンジェリークがヴィクトールを見上げる。さっきの厳しい顔つきのまま、彼は曇ったガラスの外をじっと見ていた。
ヴィクトールの髪はずぶ濡れだった。流した部分は全て下りて、滴が襟足から首、シャツの中へと伝わっていく。
その滴が布地を濡らし、褐色の肌に張り付いて、幾つかの傷跡が透けて見えた。
アンジェリークは胸の高鳴りを抑えながら、彼の胸に寄り添い、雨が止むのをじっと待った。


震えるアンジェリークの体をヴィクトールが引き寄せる。
濡れた熱い胸。鼓動がアンジェリークの耳元で、強く脈打っている。
こんなに心臓の音って、早いものだっただろうか。そうぼんやり考える。
激しい雨の音、車のタイヤがはじいていく水音は、彼女の耳にはもう聞こえなかった。
ヴィクトールの胸の鼓動だけを数える。
こんなにドキドキする出来事。結婚してから何度あっただろう。嬉しい思い出がまた一つ増えていく。
だから・・・もう少しこのままでいたい・・
アンジェリークはそっと彼の背中に腕を回しシャツを掴んだ。


「震えているぞ。寒いのか?」
「え?・・・いいえ・・」
「大丈夫だ。にわか雨だからな。すぐに止むさ」
体が震えていたことに、アンジェリークはヴィクトールの言葉で気が付いた。
濡れた服が、冷たく体に張り付いてくる。暖かかったはずの彼の胸も、今はシャツのせいでそう感じない。
確実に冷えてしまった体をヴィクトールは強く抱きしめながら心の中で何度も呟いていた。
”早く止んでくれ”
自分の胸にうずくまる小さな体。儚く弱々しい。このまま降り続いたら本当に風邪を引かせてしまう。ヴィクトールは焦っていた。
あの時遠回りさえしなければ・・・
自分のせいで・・今日の彼女の笑顔全部を、辛いものに変えてしまうかもしれない。


「こんなことになるなんて・・・すまんな」
どうして謝るの?という表情でアンジェリークは見上げる。眉を寄せた彼の顔。額に張り付く前髪。手を伸ばして途中で引いた。
彼の瞳に映るもの。それは戸惑う自分の瞳。
何だろう。わからないけど、彼が辛そうな顔をすると不安になってしまう。


「ヴィクトール様・・」
彼の名前を呼んでみる。背中を擦っていたヴィクトールの掌は、そこから離れてアンジェリークの頬を包んだ。
色のない唇。心配で居た堪れなくて、ヴィクトールは濡れた指で辿る。
「もう少し我慢出来るか」
「・・・・」
アンジェリークの返事は彼の熱い唇で塞がれていた。


暖かい・・暖かい・・・口づけの雨が降る。
心が温かくなって、やがて体も温かくなった。
優しく激しく絡まる湿った音が、眩暈がするほど甘くアンジェリークの心を溶かして行く。
苦しい・・・でも止めないで欲しい。
この雨のようにいつまでも・・・降り続いて欲しい。
彼女の思いに応えるように、彼は更に深みを求め続けた。


とても長い時間だった気がする。けれど、二人の間に流れた時間はほんのわずかなものだった。


キィ・・・
唇が離れると、扉が開く音とヴィクトールの照れた咳払いが聞こえた。
涼しい空気が流れ込み、アンジェリークは深く呼吸をする。
そんな様子にヴィクトールは冗談交じりに言った。
「俺が幅とっていたからな。こんな狭いところじゃお前の分の酸素まで占領していたかもしれん」
いつもの調子に戻った彼に、アンジェリークの不安は消える。そして、滴が引けたガラスの外に目を向けた。
柔らかな霧雨が降っている。
さっきまでの嵐も、激しい口づけも、幻だったかのように静かな景色だった。


「小降りになったようだな。・・・帰るぞ」
「はい」
帰り道、アンジェリークは彼の冗談を思い出して、いつまでもくすくすと笑った。
黒く重苦しい空はまだ晴れない。けれど、彼女が笑っただけで柔らかく心が晴れて行く。ヴィクトールの振り向いた顔も優しい安堵の笑顔だった。


*************


家に着いて、二人は急いで熱いシャワーを浴びた。
はしゃぎながら髪を拭き、服も着替えた。
その時のアンジェリークは元気で顔色もよかったのだが・・
その後、ヴィクトールの心配事が的中した。


夜になり、彼女は寝室のベットの中にいた。
冷たい雨に打たれたせいで熱を出してしまったのだ。
薬を飲ませ、額のタオルを変える。自分のせいで何度、彼女に熱を出させてしまっただろう。
こうして手を握って傍にいてやることしか出来ない。変わってやることが出来たらどんなにいいか。
「・・・アンジェリーク。苦しいのか?すまん・・せっかくの休みだったのにな。お前にこんな思いを・・」
「いいえ・・平気です。コホ・・少し眠ればよくなりますから・・そんなに心配しないで下さい」
そう言って、アンジェリークは静かに目を閉じた。こんな時ぐらい甘えればいいものを・・
だが、心配を掛けまいと強がるだけ、いつものアンジェリークなのだと、ヴィクトールは少しだけホッとした。
眠ったのを確認して、氷を持って来ようと席を立つ。
けれど小さな手はしっかりと服を掴んでいた。


「・・・・ヴィク・・ルさ・・」
「ん?」
「ヴィクトール様のせいじゃないですから・・・」
「ああ・・」
「今日はとっても楽しかったです。今も・・ずっと側にいて下さって・・朝から晩までヴィクトール様を独り占めしているみたいで嬉しいんです」
「馬鹿もん・・そんなことを言っていないでさっさと寝ろよ」
こんな時まで気を遣って、本当に馬鹿者だと彼は思う。いとおしい感情が切ないくらいに溢れて来る。
布団から出た腕を、そっと戻して、ヴィクトールはベットに腰をおろした。彼女の言葉で後悔の痛みが楽になった気がする。
額に手を置いては、眠るまで髪を撫でた。


にわか雨は、夜半過ぎには、本格的な雨となり、音を立てて降りづづいていた。


何時の間にかヴィクトールもベットに入り、暖めるようにして、アンジェリークの体を抱きしめている。
その時目を開けていたのは彼女の方だった。
雨音が心に響く。額のタオルを取りヴィクトールの寝顔を眺める。
彼は、自分のことで何かあると、とても辛そうな顔を見せる。勿論、傍にいてくれるだけで心強く頼りになる人だけれど、時々愛されすぎて怖くなる。
強いけど、傷ついて脆い部分をもった人。この傷が何よりの証。
護りたい・・支えたい。
消えない過ちは貴方のせいではないのだから・・・
本当の幸せを感じられる日がきっと来るはず。
だからもう泣かないで・・・


「アンジェ・・起きたのか?」
「はい。もう、大丈夫です。ヴィクトール様」
「そうか・・ん?下がっているようだな、良かった」
心の底からホッとした彼の顔。
額と額が触れ合って、アンジェリークは静かに泣いた。


今でも心に、にわか雨が降る。 後悔と幸せの狭間で揺れている。
きっとお前は気づいているだろう。
だが、お前の涙は優しい雨だ。穢れた心を洗ってくれる。
慈しみの雨なら、いつまでも止まずにいて欲しい。
本当の幸福を手に入れるその日まで・・


*おわり*


イラスト「雨宿り」のイメージを創作にしたくて・・
ショートなので色々省いて、だから曖昧でございます(^^;
表のアンジェはヴィク様より強い感じです(汗)
元はもっと後ろ向きな話だったんですが、やめました。
最近絵も話も不調なんで、どうも駄目ですね。