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外はどんよりとした、梅雨の空。今にも雨が降り出しそうな憂鬱な朝だった。
ヴィクトールは寝室のカーテンを開け、空を仰ぐと屋敷の庭を見下ろした。
昨夜も遅くに帰って来た彼は、久しぶりの休日ということもあって、気が緩んだのか、随分と朝遅くまで寝入っていたようだ。
既に妻は出かけた後。彼女の温もりはシーツにはもう感じられない。
――あいつはちゃんと傘を持っていったか
こんな天気だし、忘れるはずはないが、それでも何処か抜けている妻を心配し、玄関口に向かう。
花柄の傘がないことにホッとしたヴィクトールはシャワーを浴びると、遅い朝食をとった。
今朝はアンジェリークが用意したのだろう。卵とハム、サラダ、パンと、軽いものが並んでいた。
ヴィクトールは柔らかく笑うと、苦いコーヒーを飲みながら、今日一日どう過ごそうかと考えた。
洗車・・庭木の手入れ・・洗濯・・・
どれもこんな天気では出来そうにない。


今日は二人一緒に過ごせる貴重な休日のはずだった。
しかしアンジェリークは友人と、この日一日だけのバイトに出かけて行った。
勿論そんなものはする必要はないのだか、何事も貴重な経験となる年頃。
内容もデパートでのイベントの受付ということもあり、何も心配ないだろうとヴィクトールは快く賛成した。


朝食を済ませ、のんびりと新聞を広げていると、軒から雨垂れが落ちる音がしてきた。
本格的に雨が降り出してきたようだ。
――こんな日は思い出すな・・・
ヴィクトールは顔を上げると、遠くを見るような目をしながら呟いた。
――もうすぐあいつらの命日か・・・
穏やかな日々が続いても、忘れる事など決してない。
あまり見なくなったあの頃の夢を最近また見るようになったのは、きっとあの日が近づいているからだろう。
夜明けに酷くうなされて、アンジェリークには随分心配をかけてしまった。
悪夢と仲間達が笑う夢・・それを交互に見るようになってどれくらい経つだろう。
自分が暗く沈んだままならば、あいつらは喜ぶはずがない。
そう思うことが出来るようになったのは、彼女のお陰だ。
だが、時々言いようのない不安感と罪悪感に襲われる。
こんなにも自分ばかりが幸せでいいのか――
もしかしたら側にいる天使も、この平和な宇宙も全て幻なのではないか、と。
忙しさにかまけて、そんな思念に囚われる事などなかったな・・・
ヴィクトールは新聞を閉じ、窓辺に向かう。
そして、煙る青々とした緑と静かな風景をじっと見つめた。
白い哀しい雨。あの日も確か・・・遠い記憶が近づいてくる。
息苦しくなって視線を窓から外した。
しかし、部屋を見渡すと、一人でいるにはやけに広く寒々しく感じた。酷く寂しくもある。
――こんな思いをあいつにいつも・・!?
彼は一日、昔の事と妻を想い、時々外を眺めては、ただ暗い部屋に佇んでいた。


「ただいま帰りました」
「おかえり、ご苦労さん」
いつもとは反対の言葉を交し合う二人。迎えたヴィクトールはエプロン姿だった。
「腹が減っただろ。今日は俺が料理を作ったぞ」
「本当ですか?嬉しいです。ありがとうございます」
少し疲れた様子だったが、にっこりと微笑むアンジェリークにヴィクトールの目も細まっていく。
部屋着に着替えて早速二人で夕食。久しぶりの温かな食卓に心も温かくなった。
「どうだった、バイトの方は」
「はい、ほとんど立っていたので足が張ってしまって・・・たった一日でしたけど、お金をいただく大変さがわかりました」
「そうか、いい経験になったな」
今日の事を聞くとアンジェリークは強く頷き、微笑み返した。そして言葉を掛ける。
「ヴィクトール様は今日ゆっくりお休みになれましたか?」
「ああ・・お蔭さんでな。ありがとう」
自分の仕事が忙しいせいでこんな風にゆっくり夕食を共にすることも出来ない日々が続いてきた。
しかし、今日はこうして一緒に・・
だから妻の好きなものばかりに腕を振るった。彼女は美味そうに食べている。
やけに幸せな気分になる自分が可笑しくなる。
昼間一人で考えていた事も薄れてしまう程、穏やかで温かな時間がそこには流れていた。


「ヴィクトール様・・あの」
「なんだ?」
「これ・・気に入っていただけるかわかりませんけど。プレゼントです」
リビングでくつろいでいると、アンジェリークが大きな包みを持ってきた。
「これは・・もしかして今日・・」
「はい。いただいたお金で。ヴィクトール様いつもお仕事ご苦労様です」
頬を染め、差し出すアンジェリーク。
前にもこんな事が何度もあったな。ふと懐かしく思う。
彼は期待に胸を膨らませ、包みを開ける。
それは甚平と、お揃いの色の草履と扇子だった。
「今日は父の日だったから。あ・・ごめんなさい。でもお似合いになりそうだったから、以前から差し上げたいと思っていたんです。」
学校の帰りにウインドーショッピングをよくする彼女。父の日のギフトが並ぶようになり、真っ先に浮かんだのは自分の父親ではなく夫の方だった。
実際まだ父親になった訳ではないのだが、いつも自分を父性的な愛情で包んでくれるヴィクトールに感謝の気持ちを伝えたかった。
「ハハ・・何だか複雑だが・・ありがとうアンジェリーク。大切にさせてもらうよ」
アンジェリークが一日頑張って稼いだお金からだと思うと尚更嬉しく思う。
本当にいつも彼女には驚かされてばかりだ。簡単に自分の愛情の上を行く。
ヴィクトールは妻の身体をギュと抱き締めた。
「アンジェリーク・・・・いつか」
「はい?」
「あ・・いや、何でもない」
いつか本当の父親になる日が来たら・・守るべき者が増えたなら・・
自分はもっと強くいなくてはならない・・・
ヴィクトールは訪れるだろう未来に想いを馳せた。
「ヴィクトール様・・・もう少し待って下さいね」
「あ?  ああ・・今、俺がお前に望む事はお前が思うように生きる事だ。まだ若いんだからな。こうして一緒にいられることが、俺には何よりも幸せなことなんだ。急ぐ事はないさ」
自分の気持ちを読んで呟く妻にヴィクトールも言葉を返す。
何も語らずとも気持ちが通じ合う二人。
想いを確かめ合ったあの日からそれはずっと変わらない。


「似合うか?おじさんくさくないか」
「そ、そんなことないです!とっても似合いますよ!」
ヴィクトールは風呂から上がると貰った紺色の服に着替えた。照れながら妻の前に立つ。
アンジェリークは嬉しそうに夫の姿を眺めた。
やっぱりイメージどおりだと心でくすっと笑いながら・・
「この服はくつろげるな。何より布地が涼しげでいい。これから夏だし、休日はこれを着させてもらうよ」
「よかったです。気に入っていただけて・・・あの、お風呂上りにビールはいかがですか?今、枝豆茹でましたから」
用意がいいなとヴィクトールは豪快に笑う。
「お前も飲むか?」
「えぇ?だって」
「少しぐらいならいいだろう」
そう言うとコップに半分だけビールを注いた。


「乾杯」
グラスを合わせ二人は見つめあいながら、同時にそれを口に運んだ。
「・・・苦いんですね・・」
初めての味にアンジェリークは眉をしかめる。
「ハハ・・これは辛口のものだから尚更そうかもな」
(勿論ア○ヒスーパードライです。立木さんCMの)
愉快な顔をしている夫にムッとしたアンジェリークは無理やりそれを一気に飲みほした。
大人しいくせに、変に強情を張るところがいつも可笑しくもあり可愛くもある。
「お、おい」
だが、少量とはいえアルコールだ。アンジェリークは頬を染め、ヴィクトールの肩にもたれかかった。
そして、すぐに寝息をたて始めてしまった。
よく考えれは、アンジェリークの家系はアルコールは全く駄目なことを思い出した。
こんな少しで・・と不思議に思うが、弱いものにとっては仕方がない。
「くくっ・・」
悪い事をしたなと思いつつ、ヴィクトールは声を抑えて笑う。
そして、起こさぬよう彼女を抱き上げ、寝室に向かうと、静かにベットに寝かせた。
着ていた服を丁寧にハンガーにかけると、彼もベットに滑り込んだ。
こんな風に寝顔をゆっくりも眺められるのは久しぶりのような気がする。
「今日は疲れただろ。ゆっくり休めよ」
髪に触れながらヴィクトールは心の中で呟いた。
耳を澄ますと微かな雨音が聞こえて来る。
静かで優しい時間・・・


彼女が側にいるだけで、こんなにも安らかな気持ちになる。温かなものが込み上げる。
幻でもいい。望むのは彼女が側にいてくれること。ただそれだけ。
手を延ばせばいつでも安らかな温もりに触れることの出来るこの距離に・・
自分は彼女の笑顔を守るためなら、この身の全てをかけられるだろう。
どんなに時を重ねたとしても、決して変わる事などないその誓い。


ヴィクトールは、そっとアンジェリークの身体を引き寄せ、抱き締めた。
腕の中の小さな小さな温もり。
こうすると自分と彼女の身体の大きさの違いを改めて思い知らされる。
けれど、この胸の中で何よりも大きな存在――たった一人の天使。
やはり、自分は癒されたいだけなのかもしれないな。
彼女の優しさに甘えて・・
今日一日アンジェリークが側にいなかっただけで心が不安定になった自分を振り返る。
彼女と、もし出逢わなかったら・・今も独りだったら、どうなっていただろう。
まだ暗い海を彷徨っていただろうか・・・。ふとそんなことを考える。
恐ろしい―――
いつの間にか彼女が側にいることが当たり前になっていた。
こんなにも寄りかかっていたとは。
こんな心弱さを知れたら、何と思うだろうか。
自分は親になる資格などないのかもしれない。
そんなことを思い、柔らかな頬にそっと口づける。
そして、苦しげに笑うと静かに目を閉じた。
――優しい夢なら、いつまでも覚めないでくれ
そう、願いながら・・・


ここは・・何処だっただろう・・
暗い、熱い・・・圧迫感に押しつぶされそうだ。
淀んだ黒い波紋の中、仲間達の手がもがき苦しみ救いを求める。
吐き気がするほど残虐すぎる映像・・・
「ヴィクトール様・・・・逃げて・・早く!」
側で愛しい人の声が聞こえる。
何故お前がこんなところに・・お前こそ早く逃げろ !
「この星は・・もう終わりです・・」
な、何を言っているんだ!待て!どういうことなんだ!
手を延ばしても届かない・・
遠ざかり流されていく小さな手を追いかける。
だが何かがまとわりついて身動きがとれない。
やがて闇にのまれ消えていく幾つかの手。 
自分だけがまた生き残ったのか―――
アンジェリーク!!!アンジェリーク!!!俺を置いて行かないでくれ!!
お前を失ったら今度こそ俺は・・・!!


「・・・?!!!」
「あ・・・よかった・・」
「お、俺は・・・。す、すまん。また起こしてしまったな」
隣でアンジェリークが自分の頬を包んでいた。心配そうに顔を覗き込んで・・
――こんな夢を見るとはよっぽどだな
じっとりと汗をかいた身体を起こした。
すぐに彼女がこの身体をタオルで拭こうとする。
「ああ・・いいよ。自分で拭くから・・・・。心配かけてすまんな」
小さな手に汗ばんだ手を重ねる。潤む瞳。こんな顔をさせてしまう自分が憎い。
ヴィクトールは強引にアンジェリークを抱き寄せ、壊れるほど強く抱き締めた。
「・・・アンジェ・・!」
「・・ヴィクトール様?」
アンジェリークも躊躇いながら背中を抱きかえす。
柔らかな温もりに彼女はここにいるんだと、ヴィクトールはホッと胸をなで下ろすと、言葉をかけた。
「疲れているところ本当に悪かったな。もう大丈夫だから。休んでくれ」
静かに彼女の身体を倒し、ざっと汗を拭うと今度はそっと抱いた。
「・・・・」
ただ黙って自分にしがみつく仕草に胸の奥がぎしぎしと痛む。
思うまま彼女の身体を貪るように抱きたい衝動が襲う。
しかし、そんなことをしても後悔の念に駆られるだけだ。
それこそ自分が癒されたいだけになってしまう。
幸せになることへの後ろめたさ、あの日の哀しみと後悔。
過去に対する心の整理は、この一年間でつけたはずだったのにやはりそれは無理だったのか・・
それとも幸せであることへの報いなのか・・
ヴィクトールは腕に力を込めた。
彼女は不安だろうに自分を気遣って何も聞ずにいてくれる。
そんな思いやりが、痛い。しかしどこかで安堵している。
彼は何度も髪を撫で背中を摩った。アンジェリークが眠るまで。


「ヴィクトール様・・」
「何だ?まだ寝てなかったのか」
「今日はせっかく一緒にいられるお休みだったのに、我侭言ってごめんなさい」
「いや、そのお陰でいいものを貰えたよ。」
「今度のお休みはずっと一緒にいましょうね。約束・・」
「ああ・・そうしような。約束だ。」
小指と小指を結ぶ。安心したのかそのまま彼女は眠りについた。


いつか苦しみの全てを話す日が来たら、あの日の夢も、世界が終わる夢も見ることはなくなるのだろうか・・
だが、出来るならこの胸だけで受け止めて、彼女に悲しみを背負わせたくなどない。
ヴィクトールは小指の小さなぬくもりを感じながら静かに目を閉じた。
優しい夢に戻るために・・


いつしか雨も止んでいるようだった。哀しい雨音はもう聞こえない・・・
長い闇夜が明ける日はそう遠くはなかった。


――終わり――

ヴィク父と呼ばれて彼は何年経つでしょう。
店頭で父の日コーナーの甚平やら作務衣を見てヴィクトール様が真っ先に浮かびました
でも何がいいたいのかよくわからなくなりました。尻切れトンボです
ウチのヴィク様はあいかわらず男気がないですわ(^^;