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ヴィクトールとアンジェリークが一緒に暮らし始めてから、数ヶ月の月日が流れた。
平日はお互い忙しく、すれ違いの毎日だったが、それでもふたりにとって、穏やかで幸せな日々が続いていた。
そんないつもと変わらない、休日の昼下がりのこと――


この時間ヴィクトールは、書斎の窓際で椅子にもたれ、読書に耽るのが日課だった。
ぼんやりと屋敷の庭を眺めては、また活字に目を落とす。そんなことを繰り返しながら・・
「ヴィクトール様。コーヒー入りましたよ」
これもいつもと変わらない。アンジェリークがヴィクトールにコーヒーを運び、ふたりで他愛もない話をすることも。
けれど今日は違った――


「あら?眠っていらっしゃるわ。やっぱりお疲れみたい・・」
うたた寝をするなど珍しいと思ったアンジェリークは、二人分のコーヒーをテーブルに置くと、ヴィクトールの座る窓辺へ歩み寄った。
その前に苦しげな顔をしていた事には気づかずに――


「ヴィクトール様?」
もう一度小さな声で呼びかけ、それでも起きない事を確認したアンジェリークは、身をかがめてヴィクトールの顔を覗き込んだ。
琥珀の瞳が開かれている時は、いまだに恥ずかしくてじっと見られない愛しい人の顔・・
こんなに明るい場所で、ヴィクトールの無防備な寝顔を見られることは初めてだったので、アンジェリークは嬉しくなった。
「うふふ・・・」
楽しげに心の中で呟いて、その精悍な面立ちを穴があくほどに見つめた。
けれど・・
顔に走る一本の傷跡。痛々しい程のそれに今までアンジェリークは触ることが出来ずにいた。
身体や、手の傷には触れることが出来るようになっても、顔だけは特別な気がしてなかなか出来なかった。


しばらく悩んだアンジェリークだったが、意を決して、その傷跡をそっと指でなぞった。
――ヴィクトール様は今も苦しんでいる・・・ただ独りで・・
決して見せない孤独な痛みにふれたような、そんな気がした。
いつも自分を暖かな包容力で見守ってくれるヴィクトール。
そういえば、どんなに仕事が大変な時でも愚痴一つこぼした事がない。
相変わらず頼もしい大人の彼しか知らないままだ――
こんなに近くにいても、まだまだアンジェリークにとってヴィクトールが遠くに感じられた。
きっとこんな風に考えるのが怖かったからなのかもしれない・・そう思いながら・・
今度は唇で触れてみた。まだ起きる様子はない。
上から下まで唇をはわせる途中、眉と口元が少し動いたが、アンジェリークは気づかずそれを続けた。


「はははっ、くすぐったいぞ、アンジェリーク」
ハッとした時にはもう、琥珀色の瞳がすぐそこにあった。
「?!キャー!!」
「俺の寝ている間に何をしたんだ?ん?」
ヴィクトールがからかう様に言うと、アンジェリークの顔はみるみる真っ赤に染まった。
「ヤダヤダ、もぉ~。起きてらしたんですか~?」
「いや、今の今まで寝ていたぞ」
よく考えれば、小さな気配にも敏感なはずのヴィクトールが、こんなことをされれば目覚めないはずがない。
そんなあたりまえのことに今ごろ気づいたアンジェリークは、更に顔を真っ赤にさせて言った。
「嘘です、ヴィクトール様!!寝たふりしてたなんてひどいですぅ!いつから起きてたんですか――?!?!」
言い出したら聞かないアンジェリークに苦笑いをしながらも、ヴィクトールは正直に答えた。
「部屋に入ってきたのはわからなかったが、お前が俺の側に来た時からか・・何やら顔に虫が這っているように感じたぞ。むず痒くて仕方がなかったな。はははは」
「ははははじゃないですー。もう、虫だなんてひどすぎますぅ。恥ずかしいんだってば~」
本当に恥ずかしがりやのアンジェリーク。
ヴィクトールはもじもじとする仕草に目を細めると、腰に腕を伸ばし、自分の体に引き寄せた。
そして、静かにアンジェリークの胸に耳を当てた。
「ヴィ、ヴィクトール様?!」
ヴィクトールの意外な行動と、その後、何も言わずそうしているものだから、アンジェリークの胸は大きく波打った。


「あ、あの。そ、そう。コーヒーが冷めてしまいます・・・」
沈黙に耐えられなくなったアンジェリークは、思い出したようにそう言って、肩を押そうとした。
しかし、ヴィクトールはそれを遮るように、背中に腕を絡ませ、今度は胸に顔を埋めた。
胸に当たるヴィクトールの顔の感覚に、更に鼓動は高まり、アンジェリークはあたふたとしてしまった。
「すまん・・もう少し、このままでいてくれるか・・」
そんな様子に気づいたのか気づかないのか・・ヴィクトールは低く掠れた声で言った。
「こうして、胸の音を聞いていると安心するな・・。お前はここにいるんだと・・・そう思える・・」
さっきはあんなに自分をからかって楽しそうだったのに・・・
苦しげな呟きが、アンジェリークを不安な気持ちにさせた。


―――そう思えるってどういうこと?私はいつだって側にいるのに・・・ヴィクトール様、どうしてそんなこと言うの?
「どうかなさったんですか・・・?なんだか、ヴィクトール様・・」
「こんな俺はやはり変か・・・その、すまなかったな・・」
アンジェリークの言葉を最後まで聞かぬままそう言うと、体を離し、申し訳なさそうな目で見上げて来た。
また同じだとアンジェリークは思った。
ヴィクトールの身を案じた言葉をかけても、いつも ―心配させてすまん― と、かえって謝られてしまう。
だから、その後は何も聞けない。  
「ヴィクトール様って、そうやって謝ってばかり。辛いことがあるときは、お話してくれてもいいのに。私が頼りないのはわかってますけど・・これでも一応、私はヴィクトール様の・・妻・・なんですからっ」
「ん?一応・・なのか?」
「?!真面目にお話してるのに、そうやってはぐらかして・・・もう、知りません!」
こうやって自分をからかうヴィクトールを嫌いではなかったが、時々ひどく淋しく思う。自分を子供扱いしていると・・
そんな自分には、ヴィクトールの孤独な痛みも、弱い部分も分け合うことは出来ないのだろうか・・・
何だか哀しくなってきた・・・
「お、おい。怒ったのか?」
「いいえ!」
プイッと横を向いてしまったアンジェリークにヴィクトールは困ったように言った。
「お前が、俺の顔なんぞに触ったりするから・・どうも調子が狂っていかんな・・」
それが理由だったらこんなに不安にならないのに・・・
そう思ったアンジェリークは、今まで溜め込んでいた想いを口にした。


「・・・・・私、傷跡に触れるたびに思うんです。一つ一つヴィクトール様の心の傷に触れるような気がして、とっても痛いって。・・・お顔は特に辛かったです。でも、こんな痛みはヴィクトール様のものとは比べものにならない。そう思ったら、もっと苦しくて・・・」
「お前はそんなことを・・・・」
「私わかってます。わかっている・・・つもりです。私ではヴィクトール様の苦しみを分け合えないってこと。でも、お話して欲しいんです。辛い時は辛い・・って。さっきみたいに甘えて欲しいんです。守られているだけじゃ嫌だから。私、少しでもヴィクトール様のお力になりたいんです・・・」
一気に言うと、アンジェリークはヴィクトールの言葉を待った。
「アンジェリーク・・・その、俺は・・・・」
しかし、そう言ったきりヴィクトールは黙ってしまった。


こんな風に時々見せるアンジェリークの真っ直ぐな強さがヴィクトールは好きだ。
だか正直怖かった。純粋な彼女に、こんな自分の弱さや醜さを曝け出すことが・・
想いを遂げたあの日から、何度もこんな思いを繰り返してきた。
いや、その前からずっと・・
この胸の暗澹を見せて汚してはならない、悲しませてはいけない。
そう、あの苦悶は自分ひとりだけのもの。
彼女が側にいてくれれはそれだけでいいのだと・・
「・・・俺はお前にどう甘えていいのか、わからん」
「え・・・・・」
答えになっていないのはわかっていたが、本音だった。
そんな言葉に、困惑するアンジェリークを心配気に見つめながら、ヴィクトールは胸の内を告げる決意をした。



「傷が疼くんだ・・。あの日がまたやって来ると思うとな・・」
「ヴィクトール様・・」
「心配するな。傷自体が痛むわけじゃない。ただ・・どうしても思い出してしまう。あの時の言いようのない罪悪感と喪失感を・・・そんな時は決まってこのあたりが焼けつくように疼く・・」
そう言うと、顔と胸に手を当てた。
ヴィクトールは、一年に一度巡ってくるその日を決して忘れない。
以前、赴任先の惑星で親友や部下達を失った、あの災害の日を・・
アンジェリークは、その話を女王試験の時に聞いていた。
しかし、苦しい胸のうちを打ち明けてくれたのは一度きりで、それ以来話しを聞くことはなかった。
けれど今でもヴィクトールはその時の夢でうなされる。
そのたびにアンジェリークは心配で眠れなかった。
そんな事を思い出していたアンジェリークは、不安な瞳でヴィクトールを見た。
「俺はお前にそんな顔をされるのが何より辛い・・。だから何も言えなかった。良かれと思っていたことがかえっておまえを傷つけていたんだな・・すまん」
アンジェリークの頭に手をやりながら、宥めるようにヴィクトールは言った。
「お前が傷跡に触れるたびに痛みが引いていくよう気がして、俺の心は軽くなった。さっきまで疼いてたこの場所も・・・」
そして、また顔に手を当てる。
「お前はいつも辛そうだったな・・だが俺の心の痛みを必死に受け止めようとしてくれた。嬉しかったよ・・」
そう言うと、しばらくヴィクトールは俯いていた。しかし、顔を上げ重い口を開けた。
「今、俺は怖れている。こんなに側にお前はいるのに、突然消えてしまうんじゃないか・・今の穏やかな日々は幻なんじゃないのかと・・そしてあの日を重ねてしまうんだ・・。俺はお前を守ると誓った。それなのに、俺はただあの日に怯えているだけだ。失うことの怖さに・・・こんな自分を心底嫌になる・・・」
「・・・・・」
呻くような言葉にアンジェリークの心は震えた。
「こんなことを言ってお前を苦しめたくなかった・・。重い荷物を背負わせたくなかったんだ・・俺はお前が思っているような強い男なんかじゃない・・。何より臆病なんだ・・ だがアンジェリーク・・・お前に逢わなかったら俺は今も死んだように生きていただろう・・・」


ふいにヴィクトールはアンジェリークに抱きしめられた。
「私では本当にだめですか?」
「アンジェリーク・・・」
「ヴィクトール様の抱えているもの、私も一緒に持ってはいけませんか?」
「いいのか・・」
「私ヴィクトール様と生きていくと決めた時からずっと思っていました。きっとヴィクトール様はお独りで苦しみを抱えていくんだろうなって・・でも待っていました。こうやってお話してくれたら、私・・」
アンジェリークは涙で言葉にならなかった。そして、ヴィクトールの髪をその涙で濡らしていった。
「泣かないでくれ・・・」
ヴィクトールはそんな言葉しか見つからずアンジェリークを抱き返した。
「ヴィクトール様・・私の胸の音が聞こえますか?私はずっとここにいます・・何があっても。だからもう独りで苦しまないで・・」
そんな言葉にヴィクトールは気づいた。甘えていたのは自分、彼女の優しさに守られていたのも自分の方だと・・・
「お前は本当に癒しの天使だな・・」
「え・・?」
「いや・・なんでもない・・・」


その日の夜、アンジェリークはヴィクトールを胸に抱きしめながら眠った。
静かにあの日が通り過ぎるのを待つように・・
そして二人ならきっと越えていける・・そう信じながら―――


―終わり―

書いてるうちに、ただヴィク様の苦悩話になってしまった。
かなり強引なこじつけ(汗)これで本当に解決したのか?
でも難しいですね、ヴィク様は。
ところで顔の傷はいつ出来たものなんでしょうか?とっても特別なような気がするのですが・・・