明日より二日間の休みを取ったこともあり、その日のヴィクトールはいつになく遅い帰りだった。

午前2時。カーテン越しにぼんやりと灯りが見える。
まだあいつは起きているのか・・・
ヴィクトールは溜息をつきながらも、急ぎ足で部屋へと向かった。
こんなことをもう何日繰り返しているだろう。
結婚してからの一年間、正直、彼女には随分と寂しい思いをさせて来た。
けれど・・・
「ただいま、アンジェリーク」
「おかえりなさい、ヴィクトール様」
こうして、アンジェリークはいつも笑顔で自分を迎えてくれる。
どんなに心癒されて来たか。
言葉などでは言い表せない。抱き締めてやることでしか想いを返せない。
そんな自分が、歯痒く思う。


「明日なんだが・・すまん。お前の喜びそうなところへ連れて行ってやりたかったんだが、予約でいっぱいだったんだ」
忙しさで結婚する前もしてからも、ゆっくりデートをしたことなど片手で数えるほどしかなかった。
だからせめて、最初の記念日は特別に・・


夜景の見えるスウィートをとってゆっくり食事でもしよう。ヴィクトールはそう考えていた。

何日も前にホテルに電話を入れた。けれど、そう簡単に予約が取れるものではなかった。将軍の名を出せばコネで何とかなっただろうが、そういうのは好きじゃない。
どうもこういうことには気が利かない。いつもがっかりさせてしまう。


アンジェリークの額がそっとヴィクトールの胸に寄りかかった。栗色の髪が掌の中で揺れる。
そして、決まってこう言うだろう。
「いいんです。一緒にいられるなら」
「しかし・・せっかくの・・」
彼女は言葉を遮って、残念そうな気持ちを取り繕うように微笑み返した。
「あの・・ここのところヴィクトール様お忙しかったし・・お庭のお花でも見ながらぼーっとしましょ」
自分を気遣う思いやり。それがかえって重く胸にのしかかる。また何もしてやれないと・・
「ぼーっとか。それもいいかもしれんな。だが・・今月はもう休みが取れん。お前が行きたいところがあったら言ってくれ。連れて行ってやりたいんだ」
アンジェリークは言葉を躊躇した。疲れた体を休めて欲しい。だけど、彼と出掛けたい。二人だけの思い出をもっとたくさん欲しい。
それが本音。でも、無理して嘘をつくと、彼は決まって辛そうな顔をするから・・我侭を言って甘えてしまう。
「・・うーん。じゃあ。水族館。片貝海岸の近くに出来たんです。」
「そこでいいのか?」
「はい・・一緒に海も見たいです」
嬉しそうに話すアンジェリークにヴィクトールの心も軽くなる。もっと彼女を喜ばせたい。だから・・
「そうか。なら今から行こう」
「ええ??」
「夜明けの海もなかなかいいもんだぞ」


それから二人は、夜の高速を飛ばして主星の首都から一番近い、このリゾート地へとやって来た。
海岸道路から細い道を下り、砂浜に車を停める。
人の手など加えられていない少し荒れた浜辺。勿論人影などは無かった。


「日の出は5時40分頃だから、あと少しだな。間に合ってよかった」
彼の言うとおり日の出は近い。空は白々と明るく、水平線も紺からオレンジ色へと変わり始めている。
初めて見た夜明けの海。朝がやってくる瞬間、砂に埋もれた貝のかけらが日の光に反射して光る。そんな幻想的な光景だった。


「綺麗・・・」seih45.jpg
「そうだな」
二人は微笑みあう。
ヴィクトールがエンジンを切ると、波の音がはっきりと聞こえて来た。
いきなりどうして彼は夜明けの海に連れてきたのだろう・・
ハンドルの上に腕を乗せて、真っ直ぐに水平線を見つめる横顔を、アンジェリークもまたじっと見つめる。
普段もあまり饒舌ではないが、今日の彼は運転中から無口だった。
遠くを見るような瞳。額から頬に走る傷。今、彼を遠くに感じる。
時々そんな風に思う。琥珀色の瞳に映るものは自分には決して見えないから。


「寒いかも知れんが・・外に出るか?」
「はい」
二人は車から降り、波打ち際まで歩いた。
やがて、空は朝焼けに染まり、揺れる波が朝日に反射してキラキラと光リ出す。
海からの風は、いつしか二人の髪を流し、服をはためかせていた。


「色々な星で、色々な朝を見た。だが、どんな時でも、どんな場所でも、こうして太陽は同じように登る。力強く、穢れなく、神々しい・・俺は生かされている。また歩き出せる。そう思った」
「ヴィクトール様・・」
「ああ、すまん。少し昔のことを思い出していた。お前と見る朝日はやはり一番いいな・・」
照れたようにポツリとこぼして、彼は一歩アンジェリークの前に出て背中を見せた。
「こうして大自然の中にいると、人間とは何とちっぽけなんだと思うよ。宇宙の時の流れにしたら、ほんの刹那にすぎないのにな。悩んだり苦しんだり。だが、それが生きているということなんだ」
そう言ったきりヴィクトールの口を紡いだ。重い言葉が胸を締め付ける。
こんなことが前にもあった気がする・・。
あの時も、彼の背中が大きくて、遠くに感じた。自分とは全く違う世界で、この宇宙を守るため、過酷なまでに命を削って生きてきた人。
今でも時々考える。
彼の夜は本当に明けたのだろうか。自分は本当に彼の安らぎになっているのだろうか。
そう聞けば、彼はきっと笑って頷くだろう。
「お前のお陰だ」 彼は言ってくれた。
でも・・彼は自分自身で傷を乗り越えられたはず。強くて、誰よりも優しい人だから・・


アンジェリークは、ヴィクトールの背中に額をつけた。波の音と彼の鼓動だけが優しく響いてくる。
悲しいほど、大きくて温かい背中。
腕を彼の胸に伸ばし、抱きついた。一生懸命その腕を伸ばして、胸の前で指を掬ぶ。
その手に重なる温かいぬくもり。
少しだけ泣きたくなった。
絶対に離れたくない。このかけがえのない人と。
もう二度と傷ついて欲しくない。何があっても側にいたい。宇宙に危機が訪れたとしても・・
でも、その時、彼は再び身を呈してでも、この世界を守ろうとするだろう・・そして、私を守ってくれる。
償うためだけではない・・それは彼自身の答えだから。
きっと・・・


「アンジェ・・・何を考えている?」
「え?・・と。ヴィクトール様は私の旦那様なんだなぁって思ってたんです」
「ん?・・・そうなのか。風が強いから、俺の後ろで避けていろ」
彼女を喜ばせるために連れて来たのに、何だか説教じみて辛気臭くなってしまった。
ヴィクトールは胸の前で組まれた小さな手に触れながら、自嘲的な笑を浮かべた。
いつものようにからかうのはよくないだろう。そうなると真面目な話になってしまうばかりだ。
気の利いた言葉も言えやしない。
だが、言葉にしてしまうのは簡単だから、少しだけ怖かった。幸せがこの手から毀れてしまいそうで・・
彼女の手を強く握る。
今、彼女は何を思っているのか・・・
自分と一緒になって、彼女は本当に幸せなのだろうか。時々考える。
あのままアンジェリークが女王になっていたら・・
別の幸せがあったのではないか・・・そんなことを。
いつも、寂しい思いをさせている。心配ばかりかけている。
ひたむきな想いに応えられているかも本当のところ自信がない。
こんなことを口にしたら、きっと顔を真っ赤にして怒るだろうな。
けれど、彼女を守るのは、一番愛しているのは、この俺。それだけは、どんなことがあろうとも変わらない。誰にも譲れはしない。


ヴィクトールは、アンジェリークの腕をほどいて振り返った。
陰になった顔を見上げると、彼の瞳は優しく揺れている。
「アンジェリーク・・」
甘く囁かれる名前。節くれ立った指が潮風に煽られる栗色の髪を梳く。
小さな体は知らぬうちに、自然と腕の中に包まれていった。

アンジェリークは腕の中で目を閉じた。彼の体温に包まれると、不安が嘘のように消えていく。
掌が頬を撫でて、そして・・・
何も言わなくても、近づく唇が教えてくれる・・・


「アンジェ・・腹が減ったな。朝飯にするか。お前の握り飯が楽しみだ」
「?!」
「んん?何だ。どうした。そんな仏頂面をして」
「もう・・ヴィクトール様の・・バカ・・」
(キスしてくれると思ったのに・・・)
「な・・・ おい!」
アンジェリークは駆け出した。わざとはぐらかしたことくらいわかる。 照れ隠し・・それとも気遣い?
でも、やっぱり乙女心がわからない人。
だけど、だから・・好き――


「こら!待て!」
ヴィクトールは見かけによらず早足のアンジェリークを追いかけた。
華奢な背中が近づく。背中に白い翼が生えて、今にも飛んでいってしまいそうな、そんな錯覚に駆られて、思わず腕を掴み、胸にきつく閉じ込めた。
「きゃぁ」
「ハハ・・つかまえたぞ」
捕まえて、閉じ込めて、彼女は自分のもの。狂おしいほどの独占欲で、何度も確かめて来たのに、抱いても抱いても足りはしない。
今も・・さっきも。確かめたくて仕方がなくて、抑えなければ、彼女を傷つけてしまいそうだった。


ヴィクトールは腕を緩め、ふと足元の貝殻に目を止めた。
ピンク色に光るそれを拾い、アンジェリーク手の中に置く。
「アンジェ、見てみろ。綺麗な貝殻だ」
「わぁ。可愛いです。記念に持って帰りますね」
「ああ・・」
少女のように無邪気にはしゃぐ顔。この笑顔を見たくてここへ連れた来たのかもしれない。
ヴィクトールは目を細めて、彼女の手を取り歩き出した。


「本当によかったのか?もっとお前には贅沢なところへ・・」
「いいえ・・私、今とても贅沢な気分です」
「フ・・可笑しな奴だな」
アンジェリークは少しムッとした顔をした。またからかってしまったなと、ヴィクトールは眉をひそめる。
「もう・・本当に嬉しいんですってば。ずっと・・ヴィクトール様と海が見たかったから・・。ありがとう・・ございます」
「礼を言うのは俺の方だ。そう言ってもらえて嬉しいよ。ありがとう・・」
下を向いてしまった頭に彼は手を置いた。言葉も上手くない。気の利いた場所へも連れて行ってやれない、不器用な自分。
それなのに、彼女はいつも、こうやって自分の欲しい言葉をくれる。欲しい安らぎをくれる。
どうしてそんなに、心優しいのか・・・


気がついたときにはもう、ヴィクトールはアンジェリークに唇を重ねていた。
ゆっくりと甘くいざなう口づけを繰り返し。そして激しく求る口づけへと変える。
想いを注ぎ込むように、ヴィクトールは何度も何度も重ね合わせた。
彼女の苦しげな吐息が漏れる。
夢中になってしまいそうで、ヴィクトールは静かに体を引いた。


「アンジェリーク。俺はお前に辛い思いはさせない。・・・安心していい」
「うん・・」
潮風を避けるように、腕が回され、アンジェリークは上着の中に包まれた。
飾らない言葉だけど・・不安になるたびに、彼はこうして、心ごと自分を包んでくれる。
温かくて心地良くて、やっぱり甘えてしまう。


まだ、彼の夜は明けたばかりなのかもしれない。
悲しみと後悔に今でも苛まれることがあるだろう。
けれど、こんな小さな私だけど、ずっと隣で支えていたい・・


「・・クシュン!」
「ハハ。風邪をひいたら大変だ。車に戻るぞ」
「はい。おにぎりですね♪」

二人の笑い声が、風の音と波の音の中で楽しげに響いた。


平和な世界で・・(貴方)(お前)の側に・・ いつも一緒にいよう。


ずっとこのまま・・・お互いの笑顔を守るために。


―終わり―

かなりくっさい事を、だらだらと書いてしまいました。何が言いたいのかまとまらず支離滅裂です(><
控えめでひたむきなアンジェと、ナイーブで不器用なヴィク様。
いつまでもお互いを思いやる関係でいて欲しいです。つうか理想。
これは裏の新婚シリーズの区切り物として書きはじめましたが
真面目になってしまったので、表に(^^;
裏に続きがあります。そちらもまじめになってます(笑